身体の臨界点

サーカスと競技との違いは何か?

 

「身体の臨界点」石井達朗 2006 9青弓社

はこのように主張されていました

 

P24

3 身体技法を見世物に変容させるサーカス

 

神や性の転換を「演じる」のでもなく「なる」のでもなく、訓練そのものの結末をスペクタル(見世物)として、観客に供するのがサーカスである。

その点、サーカスはスポーツ競技に類似性があるが、後者のように「数字」を競うものではなく、あくまでも芸の内容を見世物にする。

訓練された芸は、つねに多少の様式性を伴いながら、観客のさまざまな反応の渦に洗われるようにして陳列される。

サーカスでも数字を競う場合がある。例えば、空中ブランコで何回転したか、椅子を何脚積み上げてその上で倒立できるか(中略)

むろん、サーカスではこの数字は本質的な問題ではないが、数字にかける情熱が即、見世物に変容し、新たな神話や物語を生むことになる。

余計な変身などしなくても、身体の「技術」がそのまま演技になる最たるものが空中ブランコである。

演技らしい演技といえば、芸人が登場してから、空中に梯子を上っていくときのかたち(いかに颯爽と上るか)、拍手に応える仕種、意図的な失敗(たまに一度目は故意に失敗して二度目に成功するというプロセスを踏むことによって、場を盛り上げるということもある)などである。

 

 

P27

以上挙げた空中ブランコ、縄跳び、逆立ちなどのウルトラ技は、いずれもそれを「見世物」「ショー」として多数の観客の前に供するそのコンテクストにおいて初めて希少価値の技となる。

たとえ一人でけいこ中に「記録」を伸ばしたとしても、それは数字のうえだけの話である。

稽古のときに十中八九成功したからいって、何百人、何千人の観客の注視を一身に浴びながら、同じ成功をするとは限らない。

ただし、失敗したとしても、それも「パフォーマンス」であることには変わりがない。

ジャグリングやアクロバットでは、さきに述べたようにパフォーマンスを盛り上げるために、パフォーマーが故意に失敗することもある。

そのときには「故意に失敗している」ことがわかるように観客にみせることがサーカスならではの芸になる。

スポーツとサーカスを大きく隔てるところは、そこにある。

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